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医者いらず健康長寿処方箋(32)

健康科学研究所所長・大阪市立大学医学部名誉教授 井上正康


井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。現在、多くの府県師会主催の公開講座で講演され大好評を博しています。ぜひ貴師会でも!
 ご連絡は下記URLより。
健康科学研究所HP http://www.inouemasayasu.com/seminar/

「脳のドーピング」

 世界選手権大会やオリンピックの選手達はあらゆる方法を駆使して身体能力を極限状態まで鍛えてベストコンディションを維持しようと努力している。選手には試合の結果が全てであり、それにより大会後の生活内容に大きな差が出てくる為、薬物まで利用して筋力を極限状態まで高めるドーピングも頻繁に行われている。最近では2011年から2015年までの4年間にロンドンやソチの五輪競技でロシアスポーツ省が国家ぐるみでドーピングを行い、選手たちの尿サンプルを操作していた事が明らかになった。ドーピング前の選手の正常な尿サンプルをロシア当局が冷凍保存し、大会時にドーピング機関が保存していた尿サンプルとすり替えていたのである。この国家ぐるみのドーピングに対して世界反ドーピング機関は、ロシアの全選手のリオ五輪へのエントリーを禁止し、オリンピックを含む国際大会からロシア政府関係者を排除すべきと勧告した。
 ドーピングの歴史は古く、古代のギリシャ時代にまで遡る事ができる。当時は競技者のパフォーマンスを上げる為に戦いの直前に興奮剤を投与していた。19世紀になると競走馬のパフォーマンスを高める為に麻薬や興奮剤が用いられていた。1865年にアムステルダムでの水泳競技大会で薬物ドーピングが判明したのが最古の記録である。1886年、ボルドー〜パリ間の自転車レースでイギリス選手がトリメチル系興奮剤を過剰摂取し、初の死亡例をだした。その後、覚醒剤のアンフェタミンが使用されるようになり、1928年に国際陸上競技連盟がその使用を禁止した。しかし、1960年のローマオリンピックではアンフェタミンを使用した自転車競技者が死亡し、オリンピック史上初のドーピング犠牲者となった。1966年以降、国際自転車競技連合、国際サッカー連盟、グルノーブルオリンピック委員会などがドーピング検査を開始した。その後、尿検査や血液検査でステロイドのドーピングをチェックする検査が可能となり、モントリオールオリンピックで初めて禁止物質に指定された。1990年には赤血球を増やして有酸素運動を強化する生物製剤エリスロポエチンも禁止された。ドーピング物質としては、ステロイドホルモン、エリスロポエチンやヒト成長ホルモン、プロベネシドやフロセミドなどの利尿薬、アンフェタミンやモルヒネなどの興奮薬や麻薬鎮痛剤などが知られている。
 タルボット大主教やクーベルタン男爵の名言「オリンピックは勝つことではなく参加することに意義がある」とか「アスリートには、己を知り、己を律し、己に打ち克つ事こそが最も大切である」などを尻目に、オリンピックの楽屋裏では国力を誇示する歪なナショナリズムや欲望が暗躍し続けている。特に現代のオリンピックでは巨額のお金が動く為、勝敗を最優先する何でもありの世界になりつつある。これまでは薬物や生物製剤を投与するドーピング法が主流であったが、今やこれらは古典的方法になりつつある。分子生物学の発展により、血液や尿検査では判らないドーピング法が開発されつつある。例えば、競走馬の体内でこれらの物質を産生させる遺伝子ドーピング法などが開発されている。
 トップクラスの運動選手は筋肉のパワー、バランス、これを制御する神経系の機能を極限に近い状態まで高める必要がある。マラソンなどの有酸素運動に不可欠な赤血球やヘモグロビンを増やす為に、以前は高地トレーニングが行われていたが、今では低酸素環境の人工気象室での訓練が当たり前になっている。全ての運動競技では末梢の筋肉系と中枢の神経系を共役的に強化しなければ優れたパフォーマンスを発揮することができない。これまでは様々な筋肉強化法が開発されてきたが、脳神経系の強化システムに関してはあまり注目されてこなかった。脳には顔や身体を観た時に発火するミラーニューロンがあり、この神経細胞は同じ動作をする際にも使われる。優れた運動選手やボクサーの動きをバーチャル的に観察する事により、同様の動きに必要な神経ネットワークが強化されてパフォーマンスが向上する。最近では、脳の運動野や特定の部位を電気的に刺激して疲労感を抑制すると同時に運動のパフォーマンスを高める事も可能になりつつある。これはヘルメット型の装置で脳の特定の神経系を電気的に刺激し、運動技能に必要な神経ネットワークを強化する方法であり、スキー選手のジャンプ力や運動協調性が倍近く増強される事が知られている。又、疲労感を抑制する脳領域を刺激すると心拍数や筋肉のエネルギー代謝に影響せずに運動持久力を増強できる。運動のパフォーマンス向上には筋肉系と脳の神経ネットワークを同時共役的に強化する必要がある。事実、身体の認識や呼吸能などを制御する側頭葉を刺激すると自転車競技の成績が向上し、運動野を刺激すると器用さが増してテレビゲームのスキルも高まる。薬物投与と比べてドーピングの証拠が残らない脳の電気的ドーピング法やミラーニューロン活性化法は運動選手達に必須の秘密兵器として活躍する可能性が高い。アスリート達のパフォーマンス強化はさておき、これらの方法は脳卒中患者のリハビリや認知症の予防改善法として発展すると思われる。この様な脳刺激法とツボや経絡を介して神経ネットワークに介入する鍼灸マッサージを組み合わせる事により有効な新治療法が開発される可能性も考えられる。

転載:月刊東洋療法269号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

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