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医者いらず健康長寿処方箋(39)

健康科学研究所所長・大阪市立大学医学部名誉教授 井上正康


井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。現在、多くの府県師会主催の公開講座で講演され大好評を博しています。ぜひ貴師会でも!
 ご連絡は下記URLより。
健康科学研究所HP http://www.inouemasayasu.com/seminar/

「授乳とオキシトシン戦争」

 ソーシャルネットワーク時代の今日ではおびただしい量の個人情報が巷に氾濫している。公序良俗に反する画像は御法度であるが、プライベートな関係者しか目撃できない種類の写真も少なくない。最近、有名セレブの“授乳シーン”が“愛情と養育母性を示す行為で隠す必要はない”とのコメント付きでSNSに投稿され、これを巡って様々な議論が炎上している。その写真がセレブの豪邸やカメラ目線でのゴージャスな暮らしぶりを見せつけるショットであったことに反感を抱いた方から多くの批判的コメントが寄せられた様である。又、3歳児への授乳シーンであった事から、“母乳は生後6ヵ月で止めるべき”とか“授乳は満2歳までと法律で定めるべきだ”などと云う極端な主張もあった。3歳児への授乳を批判する根拠として、“母乳の質は出産後の時間と共に大幅に低下する”との説があげられていた。しかし、授乳開始後に母乳の成分は経時的に変化するものの、その栄養学的な質は長期間に渡り高く維持される事が判明している。母乳には大腸菌やメチシリン耐性菌などを抑えるIgA抗体などの多様な抗菌物資も含まれており、これらの活性も授乳中はキチンと維持されている。これらの医学的事実をフェイスブックに投稿したところ、数万件もの“いいね!”の反応があった。その中には“そうであれば自分の子どもにもっと長期間母乳を与えたかった”と残念がる母親もいた。事実、WHOは乳児をなるべく長期間母乳で育てる様に推奨している。大半の国では公共の場での授乳行為が母子の基本的権利として広く認められており、大きなデパートや公共施設などでは授乳室が設けられている所も少なくない。
 古くより「赤ちゃんは脳が生む」との名言がある。これは卵巣での卵子の発育から受精、着床、妊娠、出産、授乳、及び離乳に至る全プロセスが視床下部下垂体系を中心とするホルモンや自律神経系により制御されているからである。この一連の反応に関与するホルモンの中でも、特に愛情ホルモンと呼ばれているオキシトシンはストレスを緩和して幸せな気分をもたらす。オキシトシンは子宮平滑筋を収縮させて分娩を促すと同時に、大腸の平滑筋をも収縮させて排便を誘発する。自然分娩で産まれた赤ちゃんは、便と一緒に娩出されるのでお母さんの膣内細菌や腸内細菌に濃厚感染することになる。このため赤ちゃんの腸内細菌叢はお母さんの腸内フローラと酷似している。お産の時にお母さんから貰う腸内細菌は、その後の赤ちゃんの発育や健康を左右する大切なプレゼントなのである。一方、帝王切開で産まれた赤ちゃんの腸内細菌は術場や医療スタッフの常在菌が主体となっている。最近の研究では、赤ちゃんの腸内細菌が性格にも影響する事が明らかになりつつある。事実、帝王切開で生まれた赤ちゃんでは自閉症の罹患リスクが7倍も高い事が判明している。英国では昨年から帝王切開で生まれた赤ちゃんにお母さんの膣内細菌や腸内細菌を与える予防処置がスタートした。数千万年もの時間をかけて進化してきた哺乳類の自然分娩から授乳に至る行為には、最先端医学の常識を遥かに超えた無数の生命史的財産が内包されているのである。
 古くより、女性の表情で最も美しいのは授乳中のお母さんの表情であると言われてきた。事実、聖母マリアの授乳像から御近所のお母さんに至るまで、授乳中の表情は実に穏やかで幸せ感満載である。このお母さんの無意識的表情にも幸せホルモンのオキシトシンが関与している。赤ちゃんに見つめられたお母さんの脳では様々な代謝変化が誘起される。赤ちゃんの眼はお母さんの脳をコントロールする制御装置なのである。この大きな眼で見つめられたお母さんの視床下部ではオキシトシンの産生が増加する。又、授乳行為も自律神経を介してお母さんの脳を刺激してオキシトシンの産生分泌を亢進させ、乳腺の平滑筋を収縮させて乳汁分泌を促進する。分娩や授乳のみならず、お母さんの母性本能や幸せ感までコントロールするオキシトシンは生命継承を支援する生存ホルモンなのである。
 愛情ホルモンのオキシトシンはお母さんの専売特許ではない。触り心地の良い服や持ち物などに触れたり、老夫婦や恋人同士がハグすることでもオキシトシンの産生分泌が亢進する。オキシトシンは共同作業やイベントなどで高揚感が高まった際にも産生されて集団の仲間意識を強化する。この様な脳の共感反応は女性の嫉妬心や他者への排他的感情の基盤にもなっている。この同族仲間意識と排他的感情が共鳴してジハード意識が暴走すると聖戦を誘発する事につながる。第二次世界大戦における日本の神風特攻隊や現代のイスラムの戦士たちのジハードも近縁の遺伝子集団の生存を模索する脳の神々と愛情ホルモンのオキシトシンのなせる業なのである。人生では何事にも光と陰があるが、現代のSNS時代では、様々な投稿に対して脊髄反射的に炎上せず、その無意識的背景や行間を読み解く知性と感性を育む事が大切である。

転載:月刊東洋療法276号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

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