トップ > お知らせ一覧 >「医者いらず健康長寿処方箋」(41)

医者いらず健康長寿処方箋(41)

健康科学研究所所長・大阪市立大学医学部名誉教授 井上正康


井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。現在、多くの府県師会主催の公開講座で講演され大好評を博しています。ぜひ貴師会でも!
 ご連絡は下記URLより。
健康科学研究所HP http://www.inouemasayasu.com/seminar/

「脳の無意識世界と “腹の虫”」

 古くより“腹がたつ”とか“腹の虫が治まらない”などと感情をお腹で表現することが少なくない。医学には“脳腸相関”と云う概念があるが、その分子論的実態は不明であった。胃腸には無数の自律神経が張り巡らされており、脳と協調して循環エネルギー代謝、ホルモン代謝、蠕動運動などを制御している。古くから“医食同源”という概念もあり、食物中の様々な成分が医薬の様に作用して健康を支えていることを示唆している。しかし、食事成分や自律神経のみで情動や心のあり方を左右する“腹の虫”を説明することは困難である。
 消化管には無数の細菌が共生しており、健康や病気に大きな影響を与えている。その大半は酸素下で培養解析できない嫌気性菌であるために極めて限られた情報しかなかった。近年の科学技術の進歩により、腸内細菌の遺伝子情報や様々な代謝物を直接解析することが可能となり、その全体像が明らかになりつつある。今では個人の腸内細菌の種類、量、および代謝物の動的様相を短時間で解析することができる。解析の結果、ヒトの皮膚には約1兆個、口内には100億個、胃には1万個、小腸には1兆個、そして大腸には数百兆個もの細菌が共生しており、その遺伝子は数千万種にものぼる事が明らかになった。約60兆の細胞と2万3千種類の遺伝子で構成される人体に較べ、彼らは細胞数や遺伝子の多様性でも人体を遥かに凌駕する生命体である。ヒトは“細菌の乗り物”なのである。
 低酸素濃度の消化管に棲む細菌の大半は数十億年の地球生命史を生き抜いてきた微生物の末裔である。彼らは善玉菌、悪玉菌、日和見菌などと呼ばれているが、これは科学の未熟性による誤解であり、本来は発酵菌、腐敗菌、代謝調整菌とでも呼ぶべきである。事実、ヒトも彼らの割合が2:1:7で多様性が保たれている時が健康な状態である。約1割の“悪玉菌”がいなければヒトも健康になれないのである。例えば、悪玉菌とされているバクテロイデス菌は酪酸などを産生し、脂肪の燃焼を促進して肥満を抑制している。腐敗菌がアミノ酸のトリプトファンから作るインドールやスカトールは便臭の代表的物質である。腸内細菌はこの臭い分子により80種以上もの遺伝子をコントロールしている。腸内細菌が作る便臭物質は彼らが腸内世界で生きる為の分子言語なのである。
 セロトニンは脳を元気にする神経伝達物質であり、これが不足すると幸福感が低下してうつ病を発症する。脳で働く神経伝達物質としてはその他にはドーパミン、ヒスタミン、GABAなどがあるが、これらは全てビタミンB6と酵素によりアミノ酸から産生される。実は、腸内細菌も全てのアミノ酸、ビタミンb6、神経伝達物質、及びその合成酵素を食物繊維から作ることができる。驚くべきことに、体内で利用されているセロトニンの95%以上は腸内細菌が産生しており、ドーパミン、ヒスタミン、GABA、アセチルコリンなども作っている。例えば、セロトニンは大腸菌、連鎖球菌、腸球菌により、ノルアドレナリンやドーパミンは大腸菌、バシラス属、サッカロマイセスにより、GABAやアセチルコリンはビフィズス菌や乳酸桿菌により産生されている。しかも、腸内細菌はこれらの神経伝達物質に応答する細胞膜の受容体も持っている。本来、神経伝達物質は腸内細菌が古くから産生利用してきた分子なのである。
 単細胞の細菌では細胞膜が周囲環境を検知し、栄養分を摂取して不要物を排出している。単細胞生物が多細胞生物に進化する際に最外層の細胞が皮膚となり同様の機能を担ってきた。更に大きな生命体になると体表から十分な栄養を確保することが困難になり、皮膚の一部が体内に陥入して消化管となった環形動物の誕生である。低酸素濃度の消化管内は嫌気性菌の心地良い棲家となり、長い時間をかけて宿主との間で栄養免疫的な共生関係が確立され進化させてきた。ホストの餌取り反応や逃走反応を効率化良くする手段として神経系が発達し、全情報を統合制御する脳が誕生した。実は、腸内細菌が産生利用していた情報制御物質がホストの神経細胞や脳でも神経情報伝達物質として利用される様に進化してきたのである。この際に情報神経伝達物質の合成酵素や受容体の遺伝子も腸内細菌からホストヒトへと水平伝達されてきた。脳は進化的には新参者であり、そのルーツは消化管・腸内細菌・皮膚の共生複合体なのである。古くより“脳腸相関”と呼ばれてきた概念の実態は、消化管・共生細菌・皮膚・脳―軸を統合制御する為に進化した情報制御系のスーパーシステムなのである。
 腸内細菌の代謝物は自律神経系、免疫系、循環エネルギー代謝系、内分泌系などを介して脳に影響し、快不快、嗜好、いらだち、異常行動、不安障害、うつ病、過敏性腸症候群、炎症性腸疾患、疼痛性疾患、自閉症などに関与している。乳酸菌やビフィズス菌により産生されたセロトニンもこのスーパーシステムを介して脳に作用し、疲労、神経症、うつ病などに関与している。腸内細菌が産生するセロトニンが増え過ぎると過敏性腸症候群を発症する。出産後の早期から発達してくる腸内細菌叢は乳幼児の重要な“内部環境”であり、視床下部―下垂体―副腎軸(HPA axis)の成熟にも関与している。乳幼時期の愛情不足はHPA axisの反応性を増強させる。ストレスでアドレナリンの分泌が亢進すると、受容体を介して大腸菌などが増殖して病原性を発揮する。ストレスで胃腸が障害されて下痢や感染症が増悪するのもこの為である。この様に腸内細菌は代謝産物を介してヒトの脳や無意識世界を支配する“腹の虫”だったのである。

転載:月刊東洋療法278号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

PAGETOP