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医者いらず健康長寿処方箋(57)

健康科学研究所所長・大阪市立大学医学部名誉教授 井上正康


 井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。現在、多くの府県師会主催の公開講座で講演され大好評を博しています。ぜひ貴師会でも!
 ご連絡は下記URLより。
健康科学研究所HP http://www.inouemasayasu.com/seminar/

「現代の出産模様と母乳宅配便」

 哺乳類は何千万年もの間、自然分娩と授乳により脈々と生命を継承してきた。赤ちゃんは“糞まみれで産まれる”のが自然な誕生であり、これは人類でも同じであった。しかし、近代医学の進歩によりその様相が大きく変化してきた。ウィーン総合病院産科のイグナーツ・ゼンメルワイス医師は、1840年代当時の助産婦訓練病棟での産婦死亡率が3%以下であるのに対し、医師が関与する産科病棟では死亡率が10〜40%と異常に高いことに気付いた。当時は死体検視後に手を消毒せずに分娩を介助することも少なくなかった。しかし、同僚が遺体検視後に敗血症で死亡した事から、彼は「遺体には目に見えないが致死的な物が存在する」と考え、「医師は手を消毒してから患者を扱うべきだ」と主張した。塩素化石灰水による手洗いを義務付けた結果、直後から産婦死亡率が激減した。パスツールが病原菌説を発表するより四半世紀も前の事である。しかし、当時の誇り高い医師達は「高い死亡率が自分達の責任である」との主張に激怒し、彼を賞賛する代わりに病院から追放してしまった。その為、彼は精神状態を悪化させ、失意の中で精神病院にて47歳の若さでこの世を去った。
 19世紀末になってパスツールやコッホにより病原菌が発見され、ゼンメルワイスの研究も世に知られる様になり彼の名誉が回復された。彼は今日では“病院衛生と消毒理論の父”として高く評価されている。ところで、WHOは「現代では手の消毒は常識であるが、医療関係者の順守率は50%程度である。これを厳守すれば世界の院内感染の10~70%は予防できる」と考えている。EU圏内では毎年約320万人が院内感染し、毎日約100人が死亡している。
 大戦後は院内での手洗が徹底されてきたが、排便を伴う自然出産では赤ちゃんは膣内細菌や腸内細菌に濃厚感染しながら産まれてくる為、新生児に抗生剤を投与する産院も多い。一方、抗生剤などを使わない熟練助産師による自然分娩の成績は極めて良好であり、帝王切開などの医療介入が必要なケースも少ない。最近、帝王切開で産まれた赤ちゃんでは自閉症の発症リスクが自然分娩より7倍も高い事が判明した。この為、欧米の産院では帝王切開予定の妊婦には出産前に膣内にガーゼを挿入し、出産後にそのガーゼで新生児の身体を拭いて“膣内細菌を感染させる試み”が始まっている。
 赤ちゃんは“不潔で危険と忌されている便”に濃厚接触するにもかかわらず、自然分娩による感染症のリスクは極めて低い。しかも、無菌の保育器に入れるよりも、お母さんが胸で抱っこする“カンガルー保育”の方が赤ちゃんに良い影響を与える事も判明している。やがて授乳が始まるが、初乳には130種類ものオリゴ糖(16 g/Lの食物繊維)が含まれている。ヒトの腸組織にはオリゴ糖の分解酵素が無いので、これは腸内細菌の独占的食料となる。驚くべき事に、初乳には多数の腸内細菌も含まれているのである。陣痛の刺激により妊婦の白血球が腸内細菌を乳腺に運び、これが初乳と一緒に赤ちゃんに与えられる。この為、初乳を飲めばお母さんの腸内細菌を毎日約80万個も摂取できるのである。しかも、母乳中のオリゴ糖や細菌数は授乳の時期により大きく変化していく。母乳は赤ちゃんの成長に合わせて栄養素と腸内細菌を最適化した天然のデザインフードであり、新生児の栄養エネルギー代謝、免疫軍事訓練、脳の発達や性格形成などに大きく影響している。腸内細菌の塊で“大きな便り”と呼ばれる便は、4次元的に変化する代謝支援臓器なのである。事実、ヒトの体内で生じる神経伝達物質の95%以上は腸内細菌により産生されている。赤ちゃんは3歳頃には完全離乳するが、この時期に“三つ子の魂百まで”と言われる基本的性格が形成される。“腑が煮えくり返り”、“腹の虫が治まらない”のも、腸内細菌代謝の影響なのである。丹田を意識して呼吸し、武士が自死する際に“切腹”するのも自我の基盤を断ち切る無意識的行為だったのである。
 先進国では僅か1世紀の間に自然分娩や授乳習慣が激減してきた。これらの事が大戦後の短期間に先進国で肥満やアレルギー疾患などの“21世紀病”が激増した主因と考えられている。事実、母乳に比べて人工乳で育った赤ちゃんは様々な感染症やアレルギー疾患に数倍も罹りやすい。WHOは生後半年間は母乳のみで育児する様に推奨しているが、米国での母乳育児は最初の3ヶ月間では半数以下で、6ヶ月間では25%以下である。高齢少子化に悩む日本でも会社勤務の女性が母乳保育する為に仕事やキャリアーを中断せざるを得ない事が少なくない。社内授乳施設の充実をはじめ、母子を支援する為の抜本的対策が急務である。最近、米国ゴールドマン・サックス社が「子育て中の社員が出張する際には母乳を自宅へ届ける経費を負担する方針」を決めた。女性社員が滞在する世界中のホテルへ冷凍保存容器を送り、毎日母乳を自宅へ届けるシステムである。母子に対する授乳の素晴らしい影響力を考えると、この“母乳宅配便”は大きなお釣りがくるオツな健康支援である。

転載:月刊東洋療法294号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

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