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医者いらず健康長寿処方箋(60)

健康科学研究所所長・大阪市立大学医学部名誉教授 井上正康


 井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。現在、多くの府県師会主催の公開講座で講演され大好評を博しています。ぜひ貴師会でも!
 ご連絡は下記URLより。
健康科学研究所HP http://www.inouemasayasu.com/seminar/

「ピロリ菌と21世紀病の逆襲」

 体内にある限り何とも思わない唾や便は排泄された途端に汚いと嫌われるモノの代表である。この嫌悪感は太古より人類が様々な病原体に翻弄されてきた歴史に起因する。口から侵入して来る“バイ菌”の大半は強酸性の胃液で殺菌される為、胃には細菌が住めないと長い間信じられてきた。しかし、1982年にオーストラリアのウォーレンとマーシャルがプロペラ状の鞭毛を持つヘリコバクターピロリを胃液から分離培養する事に成功した。胃潰瘍や胃癌の患者に多いピロリ菌を病因菌と考えた彼らは、これを飲む事により胃炎が起る事や抗生剤で胃潰瘍が治る事などを世界に先駆けて報告した。この研究に対して2005年にノーべル賞が授与され、“ピロリ菌は排除すべき病原体”との考えが医師達の間に広がった。これを追い風に日本でも除菌治療が保健診療として認められた。しかし、これは“ピロリ菌がコッホの三原則を満たす病原菌である事”を証明したものではない。
 10万年以上も人類と共に旅をしてきたピロリ菌は極めて多様であり、その中でCagA蛋白陽性の東アジア人型は胃炎や胃癌の誘因となりうるが、欧米人型ではそのリスクが半分以下である。ピロリ菌の大半は幼児期に感染し、日本では人口の約半数(~6,000万人)、50歳以上では70%が保菌者である。これだけ多くの保菌者がいながら、胃癌は70代以後の発症が多く、その率も1%以下と低い。胃癌の誘因となる胃粘膜萎縮は子共では起らないことから、欧米では“中学生を含む小児にはピロリ菌の除菌を行うべきではない”と考えられている。日本小児栄養消化器肝臓学会も“胃癌予防の目的で無症状の子供に検査や除菌を行うべきではない”と警告している。一方、日本ヘリコバクター学会は“全高校生を検査して早期に除菌する事が望ましい”と提言し、ある地域では高校生を対象に検査や除菌が進められている。
 一方、ピロリ菌はウレアーゼでアンモニアを産生して胃酸を中和する機能を有し、保菌者では逆流性食道炎、食道癌、肺癌、及び脳卒中などが抑制される事が知られている。更に、保菌者では喘息などのアレルギー性疾患が40%も低く、特に子供では花粉症やアレルギー鼻炎が抑制される。病理学では“身体で常時起っている軽度の炎症は組織修復や新陳代謝に必要な防御反応である”との概念があり、胃のピロリ菌も樹状細胞や制御性T細胞を介して免疫系のバランスを調節している可能性が示唆されている。事実、ピロリ菌を投与したマウスではアレルギー反応が抑制され、ピロリ菌を除菌した患者の多くで逆流性食道炎が多発している。これらの事実を考慮するとピロリ菌の功罪を一元的に考える事は危険である。若年者ではピロリ菌がアレルギー性疾患を抑制して福音となり、胃に異常がなければ腸内細菌のバランスを崩してまで除菌する必要は無い。成人後は胃潰瘍や萎縮性胃炎が胃癌のリスクを高めるので、症状のある患者のみを除菌するのがバランスの良い対応と考えられる。
 新生児の胃は未発達で胃酸が無い為、出産時に母の膣や腸内の多様な共生細菌が口から入り生着する事が出来る。乳幼児期に多様な環境微生物に曝される事により病原体に対する細胞性免疫力が強化され、逆に暴露経験が少なかったり抗生剤で治療されるとアレルギー反応の液性免疫力が強くなる。この為、胃のピロリ菌を含め、口内には約12,000種、大腸には34,000種以上の細菌が共生する様になり、彼らのバランスにより様々な生命現象が制御されている。日本は20世紀後半に極めて清潔な先進国となったが、これと並行してアトピー性皮膚炎、花粉症、食物アレルギー、肥満などの“21世紀病”が激増してきた。一方、多様な細菌と接する農家やペットがいる家庭ではアレルギー疾患が少なく、数百年前の自給自足生活を続けている米国のアーミッシュではアレルギー疾患は殆ど見られない。人類と時空を共有してきた腸内細菌は人体を構成する“重要な代謝臓器”であり、彼らとの平和共存が健康にも不可欠なのである。
 感染防御や共生細菌の“貯菌箱”として重要な扁桃腺や虫垂は扁桃炎や盲腸炎を起こすことから“無用の長物”と見なされていた。半世紀程前は虫垂炎の予防目的で新米医師の教育を兼ねて胃の手術の際に虫垂まで切除していた。無知とは怖いものである。自然界に無駄は無く、悠久の時空を旅してきた存在には相応の意味がある。抗生剤は大戦後の医療に大きく貢献してきたが、この“切れ過ぎる化学のメス”は健康に必要な共生細菌の多様性まで切除してきた。20世紀後半から抗菌薬を乱用してきた先進国では常在細菌の15~40%とその遺伝子が失われてきた。これが大戦後の短期間に免疫アレルギー病態をはじめとする“21世紀病”を引き寄せてきた主因と考えられる。抗生剤は病原菌のみならず共生細菌の多様性の喪失を介してホストにも深刻な影響を与える可能性を俯瞰的に考える必要がある。

転載:月刊東洋療法297号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

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