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医者いらず健康長寿処方箋(63)

健康科学研究所所長・大阪市立大学医学部名誉教授 井上正康


 井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。現在、多くの府県師会主催の公開講座で講演され大好評を博しています。ぜひ貴師会でも!
 ご連絡は下記URLより。
健康科学研究所HP http://www.inouemasayasu.com/seminar/

「母乳保育再興のすすめ」

 平成7年の厚生労働省「離乳の基本」では、「母乳は乳児に最適な組成で代謝的負担が少なく、感染症のリスク低下や母子関係の良好な発達、及び肥満や二型糖尿病のリスク軽減などに有効なので可能な限り推奨すべきである」とされていた。しかし、2019年の「授乳・離乳の支援ガイド」では「母乳にアレルギーを予防する効果は無い」と記載された。この改定は「母乳への過度な期待が親たちを悩ませており、粉ミルクなどを選ぶ母親の決定も尊重して安心感を与える必要がある事」を理由としており、これらを母子手帳に明記して全国の産科施設や保健師の指導に利用される事になった。
 最近の人工乳には、ホエイパウダー、調整脂肪、脱脂粉乳、デキストリン、乳糖、バターミルクパウダー、カゼイン、ラフィノース、精製魚油、アラキドン酸、酵母、レシチン、ラクトフェリン、各種ミネラル、クエン酸、イノシトール、タウリン、シチジル酸、パントテン酸、ニコチン酸アミド、ウリジル酸、5’-アデニル酸、イノシン酸、グアニル酸、β-カロテン、各種ビタミン、食物繊維代用品のローカストビーンガムなども含まれており、確かに至れり尽くせりの感がある。しかし、これでも30万年をかけて進化してきた母乳の自然配合力には遙かに及ばないであろう。
 赤ちゃんが初めて飲む初乳には様々な抗体や成長因子などが豊富に含まれている。胎便に多く含まれているビリルビンが新生児の体内に長く留まると未発達な脳には好ましくない。初乳を飲むと成長因子により赤ちゃんの腸組織が成長して蠕動運動が亢進し、ビリルビンが排泄されて新生児黄疸が予防される。授乳を開始して二週間ほど経つと母乳の量や成分も大きく変化し、免疫グロブリンや蛋白質は次第に減少して直接的エネルギー源である脂肪分や糖分が増加してくる。最近の研究では、母乳には胃腸の酵素が分解できない150種類ものオリゴ糖が含まれており、腸内細菌専用の食物繊維として機能している事が判明した。驚くべきことに、母乳にはロイテリ菌など数百種類もの共生細菌が含まれており、授乳により毎日80万個以上も赤ちゃんに移行している。これらの共生細菌の起源はオキシトシンで誘発される陣痛刺激により母親の樹状細胞が腸内細菌を乳腺に移動させることによる。更に、初乳に高濃度含まれていた食物繊維や細菌数も赤ちゃんの成長に連れて減少し、完全離乳する頃には消失する。この間に赤ちゃんの腸管内ではオリゴ糖の代謝産物である短鎖脂肪酸などが調節性Tリンパ球(Treg)を介して免疫系バランスを制御しながら炎症やアレルギーの過剰反応を抑制している。この様に母乳は赤ちゃんの成長に応じて栄養エネルギー代謝、免疫軍事訓練、脳の発達や性格形成などに大きく影響している。狩猟採取社会では母乳保育により3歳頃までに免疫系レパートリーが確立すると同時に“三つ子の魂”と呼ばれる性格の基盤が形成される。哺乳類は数千万年に及び授乳で子供を育ててきたが、ヒトの先祖も約30万年の人類史を通じてその恩恵を最大限に享受してきた。
 しかし、世界大戦後の先進国では僅か数十年間に帝王切開や無痛分娩が激増し、母乳育児の激減により母から与えられていた共生細菌や食物繊維の恩恵が失われつつある。人工乳にも食物繊維の代用品が含まれているが、母乳に比べると濃度や種類の多様性などで遥かに見劣りする。しかも、戦後の抗生剤乱用や過剰な衛生思想がこれに追い討ちをかけ、アレルギー免疫系に劇的な変化を誘起してきた。これが短期間に花粉症、アトピー性皮膚炎、食物アレルギーなどの“21世紀病”が激増した主因と考えられている。事実、母乳に比べて人工乳で育った赤ちゃんは様々な感染症やアレルギー疾患に数倍も罹りやすい。この為にWHOは生後半年間は母乳のみを与え、できる限り母乳哺育を心がける様に推奨している。2018年暮れには経済的合理性を貪欲に追求する米国のゴールドマン・サックス社が「母乳育児中の女性社員に対して海外の出張先ホテルへ冷凍保存用母乳輸送容器を自宅へ無料で届ける“母乳宅配便”」を開始した。今回の厚労省の「授乳・離乳の支援ガイド」の内容は、この様な世界の母乳哺育重視の流れに逆向する様に思われる。母乳保育が困難な母親のメンタル面を忖度する事も大切であるが、花粉症や食物アレルギーなどの21世紀病が猛威をふるう日本の国難を回避するには、時的に変化する多様な母乳成分の未知機能を最新の科学技術で更に検討する必要があると思われる。生命の健全な継承には慎重かつ俯瞰的な視点が必要に思われる。

転載:月刊東洋療法300号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

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