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医者いらず健康長寿処方箋(72)

健康科学研究所所長・大阪市立大学医学部名誉教授 井上正康


 井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。現在、多くの府県師会主催の公開講座で講演され大好評を博しています。ぜひ貴師会でも!
ご連絡はURLより。 http://www.inouemasayasu.net

「糖質制限と低炭水化物ダイエット」

 人類史の大半は飢餓、怪我、感染症、塩欠乏との厳しい戦いであり、この四重苦に強い抵抗力を獲得した遺伝子集団が幸運にも生き残って我々の祖先となった。有史前の野性時代にはこの抵抗力が極めて有利な生存能力であったが、恵まれた現代社会では時としてこれがハンディーとなりうる。先進国で肥満、糖尿病、動脈硬化などの生活習慣病が増加しているのもこの能力が一因と考えられている。一方、心配症遺伝子が多く蓄積された日本では、肥満やコレステロールを恐れ、猫も杓子もスリムな体型を求めてヒステリックにダイエットを繰り返している。その一つが“低炭水化物ダイエット”と呼ばれる代物であり、これをビジネスとして声高に宣伝する企業やメディアが後を絶たない。一方、多くの医師や栄養学の専門家達はこれに反対しており、巷では大きな混乱が続いている。この問題を解決するには、炭水化物に含まれる糖質と食物繊維の多様な機能を正確に理解する事が必要である。現代の日本では腸内フローラのバランス維持に必要な食物繊維が大きく不足しているので、これを十分に補いながら糖質の量を適宜コントロールする事が重要である。
 ヒトの基本的設計図が構築された太古の狩猟採集時代には食物繊維に富む難消化性食物や動物が主食であったと考えられている。牛などの反芻動物と異なり、ヒトでは口に入れた食物が強力な胃酸と蛋白分解酵素ペプシンを分泌する胃内に直接流入する。ここで食物と一緒に入ってくる病原体を殺菌すると同時に、蛋白質を変性させてペプチドに分解している。胃で部分消化されたペプチドは十二指腸に送られ、膵液の蛋白分解酵素トリプシンやキモトリプシンなどで更に小さく分解後にアミノ酸として体内に効率良く吸収される。肉は優れたエネルギー源である脂肪も含んでおり、十二指腸には胆汁酸と膵リパーゼも分泌されて脂肪を効率良く分解吸収している。一方、膵液はデンプンの分解酵素アミラーゼも多く含んでおり、少量ではあるが唾液にもこれが含まれている。食物を良く噛むと甘いグルコースが生じて脳の報酬系が刺激され、デンプンを含む食物への指向性と探索行動が強化される。
 糖は短期集中型のエネルギー源として有効であるが、長期間働き続けるには大量に蓄積できてエネルギー効率の良い脂肪が有利である。事実、短距離走では肝臓と筋肉のグリコーゲン分解によるエネルギー代謝が爆発的威力を発揮するが、マラソンなどの持久走では好気的脂肪代謝が主役を担っている。状況に応じて仕事量が激変する脳と筋肉がグルコースと脂肪を適宜利用する二刀流エネルギー代謝系を進化させたのはこの為である。一方、一瞬たりとも休めない心臓は長期間の飢餓時にも利用可能な脂肪由来のケトン体を主要なエネルギー源とする様に進化してきた。
 ヒトは揺りかごから墓場までの必要なエネルギーをリアルタイムで供給し続ける無意識的制御機構で生かされている。新陳代謝と細胞分裂が盛んな成長期の子供は五炭糖リン酸回路でグルコースから大量の核酸を合成しなければならない。甘味は即戦力的エネルギー情報であると同時に細胞分裂支援情報でもある。子供が甘いモノを欲しがるのはこの為である。ヒトは37兆個の細胞で構成されているが、その67%は核もミトコンドリアも無い赤血球であり、グルコースが唯一のエネルギー源である。大量の酸素を輸送し続ける赤血球とヘモグロビンを酸化ストレスから保護するにも五炭糖リン酸回路でNADPHを産生し続ける必要がある。これにより微量の抗酸化ビタミンがkgオーダーの抗酸化能を発揮する事が可能となる。筋蛋白質をアミノ酸に分解すれば多少のグルコースを産生できるが、それが長期化すると生命維持に必要な筋肉が失われて生存が脅かされる。舌に甘味受容体がある事は良く知られているが、胃、腸、骨、胸腺、膀胱、脳にもそれが発現しており、無意識下で様々な生存機能を制御している。糖の代わりに人工甘味料を与え続けると、腸内細菌叢が変化して耐糖能が低下し、糖尿病に罹りやすくなる。グルコース代謝が阻害される糖尿病では、脂肪が分解されてケトン体が脳と筋肉の主要なエネルギー源となる。ケトン体は糖尿病患者の血中で増加する事から古くより病態増悪因子として悪者扱いされてきた。実は胎児のエネルギー代謝も主にケトン体に依存しており、正常な妊婦で血中のケトン体が上昇するのはその為である。栄養学は糖代謝やケトン体の意義を善悪で単純化する思考の呪縛から解放される必要がある。
 農耕が始まると大量の澱粉が入手可能となり、エネルギー代謝革命により人口も激増した。しかし、数万年の農耕史も悠久のサピエンス全史と較べると一瞬に過ぎず、遺伝子レベルの進化は無いに等しく、現代人のエネルギー代謝特性は御先祖様と殆ど同じである。糖質のみならず食物繊維も腸内細菌の代謝系を介して我々の多様な生存機能を制御している。糖質制限と低炭水化物食は似て非なるモノであり、腸内フローラのバランス制御に必要な食物繊維を維持しながら、適度に糖質制限食を利用する事が生活習慣病の予防と治療に有効である。しかし、極端な糖質制限を長期間続けると心血管障害や癌のリスクが増大して死亡率も高くなる。何事も“過ぎたるは及ばざるが如し”であり、炭水化物の質と糖質代謝の時間軸を視野に入れた俯瞰的バランス感覚が大切である。

転載:月刊東洋療法309号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

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