トップ > お知らせ一覧 >「医者いらず健康長寿処方箋」(73)

医者いらず健康長寿処方箋(73)

健康科学研究所所長・大阪市立大学医学部名誉教授 井上正康


 井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。現在、多くの府県師会主催の公開講座で講演され大好評を博しています。ぜひ貴師会でも!
ご連絡はURLより。 http://www.inouemasayasu.net

「腹の虫と脳の進化」

 今世紀はAIが進化して様々な分野で人間の能力を超え、人類はこれまで経験したことのない難問題に遭遇すると懸念されている。しかし、その可能性を一笑する意見も少なくない。AIが大きな影響力を持つ新時代を逞しく生きていくには、ヒトを人たらしめている脳の特性や誕生史を理解する事が大切である。周囲環境を認識して生存を模索する我々の脳はどの様に生まれて今日の様に進化してきたのであろうか?
 約38億年前に誕生した原始生命体は細菌の様な単細胞であり、その細胞膜は周囲の様相に反応して内部環境を適応させる調節機能を獲得していった。この点で彼らの細胞膜は脳の機能的プロトタイプであると言える。彼らは相互に捕食を繰り返しながら約20億年前にミトコンドリアを誕生させ、ユックリと多細胞生物へと進化していった。やがて細胞集塊の最外層が周囲の栄養素や有害物を取捨選択する機能を獲得しながら表皮組織となり、“第1の脳”が誕生した。五感の中でも視聴覚や嗅覚が障害されても大半の動物は生きていけるが、触覚が障害されると生きていけない事からも“皮膚脳”の重要性が伺われる。皮膚にとっては宇宙から降り注ぐ紫外線も大きな脅威であり、その遺伝子毒性を回避する事が水辺や陸上で生きていく為の最優先課題であった。その為に表皮は紫外線毒性を軽減する様々な仕組みを進化させた。その一つがストレス応答反応として進化したメラニン産生系である。皮膚に紫外線が当たると局所的炎症が起こり、ACTH/MSHなどのホルモンが生じてメラニンを産生させて皮膚の遺伝子を保護できる様になった。この局所的紫外線防御反応が皮膚の日焼けである。イカ蛸や魚類ではこの色素を平時にも産生しながら手旗信号の様にボディーランゲッジとして利用している。この様に皮膚は鎧としての防御機能と情報発信機能を兼備した“脳”へと進化してきた。
 細胞集塊が大きくなると深部への栄養浸透や老廃物排除が困難となり内部が崩壊して空洞となり、これが皮膚と繋がって消化管を持つ体腔動物が誕生した。同じ時期に低酸素空間の消化管内に原始の嫌気性菌が移住して腸内細菌へと進化していった。彼らは腸内へ入ってくる餌や食物繊維を食欲に利用しながら高密度の多細菌社会を構築してきた。B6酵素によりアミノ酸が脱炭酸して生じるアミンは神経伝達物質として知られているが、腸内細菌はこれらの酵素遺伝子群を太古から有していた。便臭の基本物質であるインドールやスカトールもセロトニンの原料であるトリプトファンが脱炭酸して生じる腸内細菌代謝物である。これを希釈するとジャスミンの様な良い香りになり、この良香がサルモネラ菌に作用すると百種類もの遺伝子が応答して彼らの性格や増殖速度などが激変する。彼らはこの様な遺伝子機能を介して互助会的細菌社会を構築すると同時に、腸の細胞とも相互作用しながらホストと共存する不可欠な集団へと進化していった。腸内細菌のB6酵素遺伝子群も水平感染により長い年月をかけてホストにも受け継がれ、腸壁の神経伝達系などを進化させてきた。腸の開口部は口として異物、食物、毒物などを選別して栄養を確保し、腸は共生細菌と共同して効率的な消化吸収と排泄を担い、これらを統合制御する為に腸壁に自律神経系が発達してきた。この様な進化史を経て共生細菌、腸組織、消化管の自律神経系が三位一体化した腸が“第2の脳”として誕生してきた。この“腸脳”は腸内細菌と腸組織が悠久の年月を掛けて共同進化させたハイブリットな創造物なのである。やがて口の周辺に鼻、耳、眼などの情報収集装置が集積して顔の設計が完成した。これにより情報収集機能が飛躍的に強化され、捕食行動、栄養の消化吸収、老廃物の排泄などを一元的に管理する為に交感神経と副交感神経を有線回路として利用する新たな臓器が “第3の脳”として誕生した。我々の脳は進化的には新参者なのである。
 “進化は一創造百盗作”と言われる様に、同じ遺伝子を似て非なる形状や機能の創生に転用するのが“手抜き進化”の基本である。脳の視床下部下垂体系でストレス応答システムとして働くACTH/MSH系遺伝子も皮膚で紫外線防御システムとして進化したメラニン産生系遺伝子の末裔である。第3の脳ではこの遺伝子を内外の多様なストレスに対応する生存支援システムとして進化させた。セロトニンは気分や鬱病に関係する神経伝達物質であるが、ヒトの脳で産生されているのは全体の数%以下であり、95%以上は消化管などで創られ、腸の蠕動運動、血管収縮、血小板凝集など、広範な機能制御系に使い回されている。“脳腸相関”の概念は古くから直感的に認識されていたが、近年の遺伝子解析や腸内フローラ移植研究によりその驚異的世界が明らかになりつつある。ヒトと同様にマウスにも大人しい輩や凶暴な輩がいる。彼らの糞便を相互に移植すると大人しいマウスが凶暴化し、逆に凶暴だったマウスが大人しくなる。腸内フローラ移植で動物の性質や行動が激変する事は、彼らが脳機能にも深く関与している事を示唆する。事実、ヒトでも腸内フローラ移植により鬱気分が劇的に改善される臨床例が知られている。古くより、“朱に交われば赤くなる”と云われてきたが、似た者夫婦になるのも腸内細菌の仕業かもしれない。古来、ヒトは“腹黒い”、“腹を探る”、“腑に落ちる”、“腹の虫が治まらない”などと性格や喜怒哀楽を“腹の虫”で表現してきた。武士は頸動脈を切れば数分で自殺できるが、切腹により数時間も苦しみながら死ぬ儀式を確立したのは“意識が脳に、心が腑に宿る”ことを直感知していたからである。腸内フローラの代謝産物である便には“心の無意識情報”が凝縮されている。大きな便りと書く“大便”は脳腸科学的にも見事な命名である。

転載:月刊東洋療法310号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

PAGETOP